心と体を調える女性のためのスピリチュアルメディア『AGLA』で、とくに人気の高かったコラムを再掲する「AGLAアーカイブス」。2021年1月19日掲載記事。
昨年より、新型コロナウイルス(COVID-19)の猛威にさらされ続けている私たち。
隣にいて当たり前だったひとが突然、感染し重症化。病院のベッドの上に人工心肺装置を装着して横たわり、タブレットを通して最期のリモート面会。そのまま力尽きて命を落とし、顔を直接見ることなく、手を握り締めることなく荼毘に付されるという胸が締め付けられるようなことが、今現実に全国で起こっています。
また緊急事態宣言によって、閉塞した環境に留まることを強いられる私たちの生活。ニューノーマル、ウィズコロナと呼ばれる新しい次元の生活に移行することで、自分という存在に否応なく向き合う時間も増えています。
それは良いことでもある反面、先々の見えない不安感は人をより攻撃的にし、人と人との絆が分断されているような側面もあります。徹底的に自分という存在と対峙した結果、自分を責めたり、蔑んでしまうような流れにもなっていることが気がかりなのです。
だからこそ今、ひとは「生きる」ことを真剣に考えなくてはならないし、同時に「死」とは何なのかということにも思いを寄せる必要があると思うのです。
「死」は人生で最も深い学び
「愛するひとを亡くす」ことは、人生で最も深い学びだとわたしは考えています。
その死に悲嘆するばかりでは、亡くなった愛するひとが送っているメッセージや、その死が伝えようとする示唆や教訓を受け取ることは困難です。
癌で亡くなった方は、残した家族が同じ病に苦しむことがないように願い、健康な生活を営むようにメッセージを送っています。
しかし一方のご家族はというと、怠惰な生活に慣れてしまって、そこから脱却することを拒んでいるかもしれません。
亡くなった方の病床での痛々しい姿を見て、何もしてあげられない無力さに唇を噛んだように、(自業自得とはいえ)改善できない生活習慣によって、自分が癌になってしまったときに、同じ悔しさ無力さをあなた自身の愛するご家族に感じさせてしまうことにつながるのです。
自ら命を断った方は、世の中には生き伸びたくても、病に蝕まれて余命幾ばくもない人たちがたくさんいるのだから、そうした人たちの分も、何事にも挑戦し、冒険しなさいというメッセージを送っています。
しかしご家族は、命を断った愛するひとの記憶に囚われ、自分の心を痛みから守ることにばかり時間を割き、現実から逃げ続けるあまり、かえって心を疲弊させ、傷つけているかもしれません。
亡くなった方が、高いプライドをかなぐり捨てて、周囲に声高に助けを求められなかったように、あなた自身も周囲に自分の心を守るための高い防御壁を作り上げて、自ら孤独という道を選び取っているのかもしれません。
愛するひとを亡くしたのなら、その旅立った愛するひとが、自分や家族に向けているはずの思いを、想像力いっぱいに慮る必要があります。愛するあのひとだったら、何を思い、どういう行動を私たちに促しているのかということに、もっと心を寄せるべきです。
自分自身の悲しみ、痛み、喪失感にばかりしがみつかず、亡くなった愛するひとならどう考えるのか、どう行動するのかを、想像することが一番の供養なのです。
また、亡くなったひとに「もっとこうしてあげられていたら・・・」と後悔の念を抱き、その罪悪感から離れられないということもあるでしょう。
しかし、心配は要りません。
亡くなったひとは、あなたのそんな後悔の念ごと抱きしめて、愛してくれています。「なぜ、私が生きているうちに・・・してくれなかったのか」などと怒りを露にしていることなどありません。
亡くなるということは、肉体というしがらみから解き放たれるということ。つまり、私たち生きている者の思考にダイレクトに寄り添えるようになっているのですね。
あなたがなぜ、後悔を抱くような関わり方しかできなかったのか、それをすぐに明晰なヴィジョンとして見ることができ、あなたの積年の思いを追体験することができるのです。
あなたがなぜ、そのような思考になり、そうした行動を取らざるを得なかったのか、それを深く、深く理解できるのです。
しかし、後悔するということにも意味があり、それは必要とされる時間です。そのことで、愛するひとが「愛するひと」であったことを再確認できるのですから。
その再確認する時間こそが、亡くなったひとの魂と、交わる瞬間でもあるのです。
夢にあらわれる父
以前、『愛するひとを亡くしたあなたへ 〜「死」を考えることは、「生」を愛おしむこと』という同じタイトルで記事を公開しました。このとき最後の章でお伝えしたメッセージは、私が亡くなった父から受け取った言葉でした。
今回は、以前公開した記事を再構成して、もう少し分かりやすくお伝え出来ればと思っています。
わたし自身のお話を少し。
わたしは、小学生までは比較的苦労なく育ちましたが、中学に上がる頃から父の経営していた会社の事業が傾き始めました。結局そのまま倒産し、親1人子1人の父子家庭となりました。
父子でホームレス同然の生活をしたこともあり、父は大変苦労しながらわたしを育ててくれました。
そんな父は、私が28歳のときに、72歳でその生涯を終えました。
父にとって、わたしは唯一の肉親でありますが、あまりのショックから、共にこの厳しい社会を生き抜いた父の死を受け入れることも、認めることも出来ませんでした。
臨終の瞬間にも、その死の直後にも会うことを拒みました。その顔をゆっくり見ることが出来たのは死の二日後だったのです。
父は亡くなってから毎日のように私の夢に現れ続けました。ただ無言で目の前に立っているだけであったり、私の名前を消え入るような声で囁いたりと、ありとあらゆるシチュエーションで夢に登場するのです(いつぞやは、昼間の起きている明晰なときに、父の私の名を呼ぶ声が聞こえたこともありました)。
父は、可能性に溢れた私の人生を壊してしまったという後悔に苛まれていて、いつも苦しんでいました。ですから、この世に残した我が子が気がかりで堪らなかったのだろうと思います。
亡くなってちょうど1年後の命日の晩、いつものように夢に現れた父は柔和な表情を浮かべながら、このように語り始めたのです。
お前のことが心配で夢を通して接触して来たが、それも今日で終わりだ。明日からもう夢の中には出て来られなくなった。だから最後に言っておきたいことがある・・・
そう言って話し始めたことが、あのメッセージなのです。
ここに、もう一度書かせていただこうと思います。
これはわたしの父が、夢の中でわたしに送ったメッセージですが、あの世へと旅立ったその他の多くの魂(霊たち)の思いを代弁したものでもあると思います。
父は生前から、このメッセージの断片をわたしに語り聞かせてくれていました。夢の中に現れて訴えることで、それを念押ししておきたかったのだと思います。
皆さんの、先に旅立った愛するひとからのメッセージだと思って、読んでみていただければ幸いです。
愛するひとからのメッセージ
『そんなに悲しまないでくれ、私は「死」という名の進化を遂げただけなんだ。重苦しい肉体を脱ぎ捨てて、本当の意味の自由を手にした。先に旅立った家族にも再会出来る。
これがどんなに幸せなことか分かるか?私の父や母や、祖母や祖父、かつての親友も迎えに来てくれて、そちらよりも賑やかだ。皆、老いから脱して若々しい。
肉体がないからどこへでも好きな場所へ行ける。だからこそ生きて肉体を持っていた時よりもおまえとは距離が近いんだ。
でも、きっとそれには気付いてもらえないのかもしれない。
悲しめば悲しむほど、「死」を嫌悪すればするほど、おまえは私とのこの距離の近さに気付けなくなることを知って欲しい。
それでも、気付こうが気付けまいが側にいることは事実なんだ。
私のために嘆いたり、悔やんだり、自分を責めたりしないで欲しい。私を思い出してくれることは嬉しいが、いつまでも私の記憶だけで人生を成り立たせようとはしないで欲しい。
「死」とは2つの構成要素があるんだ。1つは「肉体の死」そして、残して来た家族や愛する人達の「記憶の中での死」なんだ。適度に忘れ、適度に思い出してくれればそれでいいんだ。
私が先に旅立ってしまったが故に、不幸な人生を送り、愛に餓え、生きる気概を失ってしまうとしたら、それを上から見下ろしている方がずっと辛い。家族や愛する人の辛さは、こちらの世界でも我々と共有することになるんだ。だから私も辛いんだ。
私が肉体を失ったからといって、生前の魂も精神も思考も失われたと思ってはいないか?それは大きな間違いだ。自分の目の前にある形として存在するものしか信じようとしない人間の無知さや愚かさがそこにはある。
「それは違うぞ!」とおまえの耳元で大声で叫んで訴えたいくらいだよ。しかし、それが間違いであることには自分自身で気付かなければならない。それが成長というものであり、気付きというものだ。
肉体を失ってよく分かったよ。ここに来てそれが自然と分かるんだ。それにここにいる先輩達も教えてくれる。生きている時に感じた苦しみや、寂しさや、痛みには全て意味があったってことがね。
生きている時には、その苦しみからすぐに逃れたいと思ったものだけど、今思えば、もっとあの苦しさを味わい尽くせば良かったと思っているよ。その意味するところがいずれおまえにも分かる日が来る。
今は分からなくてもいいんだよ。
さぁ、これからは悲しみの中に佇まないで、自分の人生を楽しみなさい。そして人のためになりなさい。愛しなさい。受け入れなさい。冒険をしなさい。許しなさい。手放しなさい。
おまえがそうしてくれたら、私も心置きなく「第2の生」を思う存分満喫出来るし、こちらで授かった仕事や役割に集中出来るよ。私にだって、こちらで仕事があるんだ。
ずっとおまえに張り付いて見守っている訳にもいかないけれど、おまえが私を求め、私の力を借りたいと願う時には、すかさず手助けをするつもりでいるよ。手助けといっても、そちらの世界でいうところの手助けとは少し意味が違うけれどね。
だから心配せずに自分の人生を生きて!
それが私の願いであり、互いの幸せに繋がるもの。
「死」や「生」や「愛」を決めつけたり、誤解したりしないで欲しい。棺桶に入った遺体や、遺影ではなくて、悲しみに暮れている家族を見下ろすように微笑んでいる「愛するひと」に向かって合図を送るべきなんだよ。
おまえは、その与えられた人生を全うして欲しい。全うした暁には、こちらで再会しよう!』
皆さんはこのメッセージをお読みになって、どんな思いにかられるでしょうか。
「死」との向き合い方
何年も闘病した人が亡くなれば、その苦しかったはずの闘病の日々を労いましょう。そして痛みや、不自由だった身体からの解放を祝いましょう。
そして同時に、その病で苦しむ、まだ命の灯火を燃やし続けている人々に心を寄せましょう。その「死」を契機に、愛する家族を苦しめた病気について問題意識を持ち、「死」や「生」について真剣に考え、自分の人生をしっかりと生き抜く決意を示しましょう。
自分でやむを得ず命を絶ってしまった人がいれば、その「死」を選択せざるを得なかった背景に心を寄せ、想像しましょう。そして自ら「命を断った」ことを断罪せず許し、その決断が如何に辛く、究極のもので、切迫したものだったかを理解しましょう。
そして今はやっと生前の苦悩から抜け出せたのだね、と言ってあげましょう。また同時に、同じように「死」を選択しなければならないような苦悩のさなかにある悩める人々の存在や、心の叫びに気付いてあげる想像力を育み、寄り添いましょう。その「死」を契機に、自らの生き方を問い、利他的な視点を忘れず、人生を楽しんでいく宣言をしましょう。
天寿を全うした人がいたら、声高に「ご苦労様でした」と、その人生を労いましょう。そして第2の生も楽しんで欲しいと笑顔で送り出してあげましょう。
同時に、この戦後の日本を持ち前の勤勉さと真面目さで形作ってくれた、全てのお年寄り達に感謝をして、これからも平和な日本を維持していきますと安心させてあげましょう。
このように「死」について考えることは、「生」を愛おしむことに等しいのです。「死」抜きで「生」は語れず、「生」抜きで「死」も語れません。「死」とは「新たな生」であり、それは地続きです。
そして「生」も「死」も「愛」で構成されている事実に気付かなければなりません。
私自身も、多くの友人や知人、家族を亡くして来ました。自分で命を絶った友人も何人もいます。そして私自身も、自分で命を絶とうとした経験を持っています。「生」と「死」と「愛」は誰の人生に於いても大命題であることを忘れてはなりません。
以前のコラムで取り上げた『パレルモ・シューティング』という映画の中で、主人公フィンがパレルモの街で羊の番をする男に、唐突にこのようなことを言われます。
『母親に最後に会ったのは?最後の散髪はいつ?何事にも最後はあるが、人は気付かない。いつもこれが最後だと思うことだ。最後の羊の番、最後に目にする他人、君の涙を見るのも最後、すべてを正面から受け止めるんだ』
映画『パレルモ・シューティング』より
今日、目にするものが人生で最後だと思えば、その対象に優しくなれるし、その時間を愛おしめる。
自分の目の前に広がる世界をしっかりと受け止めることの大切さを教えてくれる言葉であり、コロナ禍である今だからこそ意識したい言葉でもあります。
明日も当然のように会えると思えば、その人を無用に傷つけてしまうことだってあるかもしれません。明日も当然のようにそこにある、そう信じて疑わないからこそ、見過ごしてしまうものがあります。
今日、何気なく傷つけてしまった相手が、もう明日には会えなくなるとしたら・・・
今日、貴方が出会う人々、景色、風、匂い、それらが人生最後のものだと思って、毎日を生きてみましょう。きっと全てが自分を祝福してくれているかのように感じるでしょう。
そして「死」とは忌むべきものではなく、抱き締めるべきものなのだということを心の片隅において生きてみましょう!