心と体を調える女性のためのスピリチュアルメディア『AGLA』で、とくに人気の高かったコラムを再掲する「AGLAアーカイブス」。2021年4月14日掲載記事。
長引く先の見えない新型コロナウイルスとの闘い。そして、それに伴い変化を余儀なくされる私たちのライフスタイル。
愛する家族を突然、コロナウイルスへの感染によって亡くしてしまわれた方もいらっしゃるかもしれませんし、雇い止めにあって職を奪われたり、事業や商売が苦境に立たされていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
思い描いていた夢や理想と、現実とのあまりのギャップに落胆し、前向きになれない方もいらっしゃるでしょう。
大なり小なり、多くの方々が何らかの影響を受けているこのコロナ禍にあって今、女性の間で「禅」へ関心が高まりを見せています。
禅への入り口として、最もポピュラーなのは「座禅」や「瞑想」ですが、禅の古典的名著である『十牛図』が今、現代人必携のバイブルとして注目を集めています。
数多存在する自己啓発本の元祖ともいえる『十牛図』は、不安と葛藤に押しつぶされそうなあなたの心に光を灯し、「ほんとうの自分」「真の自己」を見つけるキッカケを与えてくれることでしょう。
真の自己へ導く『十牛図』
「十牛図」とは、人が「悟り」にいたる10の段階を、10枚の画と詩で表したものです。
それぞれの図には序文である「序」と、漢詩の「頌(じゅ)」が付けられています。15世紀の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵師遠(かくあんしおん)禅師が「頌」を、その弟子の慈遠(じおん)禅師が「序」を書きました。
この画に描かれているのは、水牛と牧人。
水牛は「真の自己」を表し、牧人は「真の自己を求める人」を表しています。
私は10代の頃にこの十牛図と出会い、大きな影響を受けました。苦渋に満ちた10代でしたが、この十牛図を眺めているだけで、随分と自分の心の内を整理できたのを今でも覚えています。
自分に徹底的に向き合い、「ほんとうの自分」と出会いたいとお考えの方には、この十牛図はうってつけかもしれません。
以下に、私の解説を付して、十牛図をご紹介したいと思います。
この十牛図をひとつひとつ見ながら、自分が今どの段階にいるのか、自分の心や魂が画と詩にどう反応するのかを観察してみて下さい。必ず、心に留まる一文が見つかるはずです。
「牛を捜す(尋牛)」
飼っていた水牛が逃げ出したため、それを探しに出かける牧人の姿が描かれています。
牧人が探しているのは「真の自己」つまり、「ほんとうの自分」です。
「ほんとうの自分を探す」ということとは、どういうことなのでしょうか。それは、自分にとっての幸せのあり方を探すということです。
本来、人はあらゆるものを持ち合わせているはずなのに、自分の持っているものに背を向け、直視しようとはしません。不幸の数ばかりを数え、ささやかな幸せの数を数えることを忘れています。
自分にないものばかりを探し求めようとするからこそ、迷い苦しみます。ほんとうは何も失ってなどないのです。
「足跡を見る(見跡)」
あてもなく山野を越えて探すことに疲れ果てた牧人は、お経を読んだり、人から教えを受けて水牛の行方を追っていました。そして、ようやく足跡を見つけたのです。
これは、”ほんとうの自分”に出会う手がかりを見つけた段階です。
お経を読んだり、人からの教えを乞うという行為は立派です。しかし、それを見極める眼が大切です。
『仏教とユング心理学』の著者、J・マーヴィン・スピーゲルマンはこう解釈します。
「あらゆる書物、あらゆる知識、さらには私が過去に悟ったすべてのものは、自分自身の本質と親交がなければ、ゴミと同じ」
お経や、人からの教えに「ほんとうの自分」の在り処そのものがあるわけではありません。きっかけと、目標を見間違えてはならないのです。
「牛を見る(見牛)」
牧人は、お経や人からの教えを手がかりに、ようやく水牛を見つけました。しかし、その姿は物陰に隠れていて、一部しか見えていません。
水牛を見つけられたのは、水牛の方も自分を探していたからです。それまでの自分の人生の歴史、心の機微、痛みや葛藤、学び、そのすべてが水牛を見つけるために必要な経験だったのです。
海水に含まれている「塩」、絵具の中に含まれている「ニカワ」のように、自分と水牛は本来は一体の存在であり、分けられるものではないのです。
「牛をとらえる(得牛)」
牧人は水牛を捕らえることができました。結ばれた一本の綱が頼りです。
その後、水牛は牧人の意志に屈しはせず、再び彷徨い、逃れ、姿をくらましてしまいます。
人は夢や希望を見出しても、それを真に自分のものとする過程で、心の迷いや、悩みにぶつかり、大いにあがくものです。
しかし、その「あがき」にこそ価値があります。
水牛はたとえ捕まえたとしても、猛々しく野生を求めるでしょう。
瞑想をしていても、常に雑念が湧き上がって来ます。そんなとき、一本の綱を頼りに再び意識を集中させ、自分という存在の内へと入ります。
「牛を牧する(牧牛)」
牧人は、姿をくらました水牛を再び捕まえることができました。
手綱と鞭をもって、何とか水牛を操り家路を急ぎます。
人は、自分の迷いや悩み、弱さを直視できず、向き合うことを恐れます。しかし、常に “ほんとうの自分” に出会いたいと願い続ける気持ちが大切です。
今は手綱と鞭がなければ、水牛をコントロールすることができません。そうしないとまた水牛は逃げ出し、野生に戻ろうとするでしょう。
少しずつ飼い慣らしていけば、水牛は手綱と鞭を必要としなくても、牧人と一体になるはずです。
「牛の背に乗って家へ帰る(騎牛帰家)」
水牛はついに大人しく牧人に身を任せるようになりました。
手綱も鞭も必要なくなり、水牛の背に乗って牧人は笛を吹いています。
牧人と水牛は一つになりました。長らく離れ離れでしたが、今は一体です。
「真の自己」と、自分は元々ひとつのもので、ただ元に戻ったに過ぎないのです。
「牛は忘れられ、男は1人残される(忘牛存人)」
牧人は家に帰り着きました。軒先に座り込んで、山を眺め、月を見て手を合わせています。
しかし、ここに水牛は描かれていません。
雲が晴れて、月がその美しい姿を見せるように、初めから水牛は自分の中に存在していたことに気づきます。
自分という存在の外に探し求めていた水牛は、自分自身と一体であり、自分の内にいたのです。
「牛も男も視界から消える(人牛倶忘)」
この図には、もはや牧人も水牛も登場せず、中央に円が描かれています。
この円は「空(くう)」を表しています。
世のすべては「空無(存在しているかのように見える事物は、全てが仮のものであって実在していないということ)」です。
先述のスピーゲルマンはこのように言います。
「太陽は光の前にあり、円は男の前にありました。眼がないのに、光に何の用があるでしょう。部分がないのに、全体に何の用があるでしょう」
水牛(「真の自己」)を探し求め、自分の幸せとは何かを問うために、長い旅路を歩き続けていました。そうして「悟り」に到達したら、その「悟り」でさえも手放さなければ、その「悟り」について迷ってしまう。
「真の自己」に出会ったのなら、そこに留まらず、そのまま駆け抜けなさい、ということを表しています。
「生まれ出たところへ戻る、源へ戻る(返本還源)」
「空(くう)」となったあとに、現れたのは「木」です。
長い旅路の果てに、水牛を見つけることができましたが、ここにも水牛はおろか自分さえも描かれていません。
「真の自己」を探した行為そのものは尊いものですが、旅に出かける前から目の前の庭には、変わらずにその木はあったのです。
清らかな心で周囲を見渡せば、世の中はそのままで十分美しい。湖は広々とし、花も赤く咲き誇っている。旅に出かけなくても、ただ庭先に座って眺めていれば分かったことなのです。
どんな「花」を人生に咲かせるか、ではなく、根をしっかり張ることの大切さを「木」は教えてくれます。
J・マーヴィン・スピーゲルマンはこのように表現します。
「空無を超えて、太陽を超えて、光を超えたところに源があります。源とは木です。空間の中央にある円が、木の穴にある小さな円と会合します」
「喜びを授ける手をもって街に入る(入鄽垂手)」
描かれているのは「布袋さん」です。
言わずと知れた七福神のお一人です。
この布袋さんは、かつての牧人です。
「真の自己」と出会い、自分の幸せのあり方に気づいた牧人は、身なりも気にせず町に出かけ、人々と交わり、酒を酌み交わします。その顔は、笑顔に満ち溢れ、出会った人を癒し、救います。
「悟り」を開いた者、何かを得た者は、それを自慢気に見せつけたり、偉そうに振舞うことなく、他者に自分のもっているものすべてを与えることで、より成長できるのです。
スピーゲルマンはこのようにいいます。
「あらゆるものは仏性からなり、あらゆるものは聖なるものです。それはそういうものが会合した時だけです。会合して触れ合うときだけです。喜びは授けられなければ、それにどんな価値があるというのでしょうか」
分かち合えなければ、それは「幸せ」とは呼びません。
*『十牛図』(相国寺蔵):周文筆, Public domain
いかがでしたでしょうか。
他者を受容できない心の有り様。隔たった正義感を振りかざし他者に憎悪の感情を抱いてしまう気持ち。自分は絶対正しいと信じて疑わない無謬性。
昨今、SNSを中心に「人を許せない」「人を認めることが出来ない」という感情が渦巻いているように感じます。
生まれてから常に家族や学校や社会という枠組みの中に存在し、それらとの関係性の中で自分の価値や意義を見出すことを、まるで義務付けられているように生きている私たち。それは洗脳にも似たものです。
他者との関係性の中に「自分」を見出そうと足掻いているうちに、その「自分」を「マス(大衆・集団)」の中で見失い、迷子になりがちです。
しかしそれでも、時に他者の瞳に映った自分の姿こそが、真実の自分に最も近いと思える瞬間もあります。
他者は自分を苦しめるものでもあるかもしれませんが、愛し、慰め、肩を抱いてくれる存在でもあります。それを実感するためには、まず「マス」の中で見失った真の自己と再会を果たさねばならないのだと思います。
十牛図をヒントに、真の自己を尋ね、そして出会ってみて下さい。あなたが真の自己と再会できた暁にはきっと、他者を今よりもっと愛おしく感じるはずです。そして何より、自分自身を愛おしいと思えるでしょう。
アフター・コロナの社会が、愛に溢れた素晴らしい社会でありますように。
参考文献
『仏教とユング心理学』J・マーヴィン・スピーゲルマン、目幸黙僊(著)春秋社