2023年も激動の1年でした。
ハマスによるイスラエルへの奇襲攻撃、それに続いてイスラエルの大規模なガザ侵攻。子どもや高齢者なども犠牲になる無差別殺戮が繰り返されています。
YMOの坂本龍一さん、高橋幸宏さん、BUCK-TICKの櫻井敦司さん、谷村新司さん、KANさん、鮎川誠さん、ジェフ・ベックさん、ティナ・ターナーさんなど、一時代を築いたトップアーティストが相次いで亡くなった年でもありました。
政治では、自民党のパーティー券裏金問題で政治不信が高まりを見せています。
今年の5月8日に、国の感染症法上の分類が「2類」から「5類」に変わり、息苦しかったマスクを取って旅行や飲食など、外出する機会も増えたことは良かったことですが、国内にも国外にも暗澹たるニュースが蔓延しており未来への不安は拭えず、人々の心は荒んでいるように思えます。
こうした不安な世情でありますから、新年は初詣に行かれて、心を清らかにしたい、家族の健康と幸福を祈りたいという方も多いかと思います。
新年を迎えるにあたって、神社仏閣で心新たに誓いを立て、日頃の感謝をお伝えしたいという皆さんに、地域の氏神様、産土様とのご縁を深めるための参拝に関する予備知識、所作等を毎年まとめて、お届けしております。
これを参考にされることで、皆様のお住まいの地域の氏神様、産土様との絆とご縁はさらに深まることでしょう。
2023年を無事に過ごせたことのお礼と、2024年の健康と幸せを祈りに、神様に会いに行かれてはいかがでしょうか。
初詣は元旦、三ヶ日にこだわらず、2月3日の節分頃までに済ませるような心構えで良いかと思います。初詣客で賑わう参道の露店に立ち寄って飲み食いをするのも楽しいですが、新年から人混みで疲れてしまうのも大変ですし、何より新年の誓いはなるべく静謐な雰囲気で行いたいもの。
個人的なお勧めの参拝日は「大晦日」です。
混雑を避け、作法をしっかりと守ることが出来ます。
参拝する神社の御祭神を知る
参拝前日から、お伺いする神社への思いを深め、心構えをし、身支度を整えます。
まずは参拝する神社のご祭神のお名前(神名)を知り、覚えておきましょう。
お寺に参拝される方は、そのお寺のご本尊がどんな仏様(仏名やご利益)であるかも事前に調べておきます。
また、そのご本尊にはそれぞれ、ご真言がありますので、覚えておいて参拝時に唱えると、よりご加護を受けやすいでしょう。
お名前を覚えたら、ご神前でご祭神に呼びかけてみましょう。この方法はまた後ほど「参拝」の章で詳しくご紹介します。
初詣に参拝する神社は、遠く足を伸ばした有名神社よりも、氏神様や産土様などへの参拝をお勧めしています。とくに崇敬神社がある場合は、そちらの神社へご参拝下さい。
筆者コラムより抜粋。参拝の心構えについては以下のコラムをご参照下さい。
潔斎する
2023年の5月8日から国の感染法上の分類が、季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げられたことにより、今年は一家で帰省をして、大人数でお酒を酌み交わす場面も増えるかもしれません。
しかし、飲み過ぎ(泥酔はもってのほか)、食べ過ぎでの神社参拝は好ましい行為ではありません。
神社へ参拝し、より神様との距離を縮め、真摯に願いを聞き届けていただきたいと思うときは、その前日からお酒や肉類を断ち、「五葷(ごくん)」といわれるような匂いの強い野菜類を食べることを控えることが大事です。
五葷とは・・・「ニンニク」「タマネギ」「ネギ」「ニラ」「ラッキョウ」
*文献などにより内容が異なる場合があります。
肉食に関しては、神社の神使がこれを嫌う場合があります。
神使とは文字通り神様の使者であり、眷属です。
本殿に祀られるご祭神は、崇敬者や参拝者のために自ら直接行動することはありません。
人々の思いを汲み取ったご祭神の神意に従って、神使が現世に直接の影響を与えます。つまり神使とは、神意の代行者であり、神の領域と世俗とを縦横無尽に往復する存在なのです。
神使といえば一番有名なのは稲荷神社の狐ですね。
京都の伏見稲荷大社を筆頭に、全国の稲荷社の神使は狐となります。
神使はほかにも、兎(調神社、岡崎神社、住吉大社)、猿(日吉大社、日枝神社など)、鹿(春日大社、厳島神社など)、鶏(伊勢神宮、石上神宮など)、猪(護王神社など)、鳩(八幡宮)があります。詳しくは、筆者のコラム『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界』をご覧ください。
この神使は、世俗に直接の影響を与える存在であるため、非常に厳格で荒々しい性質を持っていることがあります。まるで人間のように感情豊かな存在です。
ですので、参拝者がその神社の神域をまたぐ際の心積もりなどを厳しくチェックしている場合もあるのです。
厳しい神使は、自身に関わる動物の肉を食べることを嫌うことがあります。私の場合は、元々四つ足の動物(牛や豚)の肉をほとんど食べません。
とくに稲荷社へ参拝する場合は、参拝前日から(四つ足の動物の)肉食を控えたり、食べる量を抑えたりするなどの配慮をすることも考えてみる必要があるでしょう。
実は、前日や参拝直前にお肉をたくさん食べたであろう人に、神使の狐が威嚇することがあるのだそうです。
神使である動物で日常、私たちの食卓に上るのは牛と鶏くらいですし、過剰に気にする必要はありませんが、そうしたことへの配慮を怠らないようにすれば、より歓迎されやすい、ご縁を結びやすいという傾向があるのは確かなのです。
筆者コラムより抜粋。潔斎、参拝時の服装についての詳細は以下のコラムをご参照下さい。
鳥居之祓を奏上する
神様と相対し、対話をさせていただくためには、まず参拝に来させていただいたことを神様に認識していただく必要があります。
日々、たくさんの方々が神社へ参拝なさっていると思いますが、基本的に神様は作法を重んじ、礼を尽くし、いつも「畏れ多い」という謙遜の気持ちを持っている者にしか視線を向けては下さいません。
これは相対し、対話する以前の問題です。
こうした姿勢を欠いたまま、どんなに通い詰めて願をかけられても、それは叶えられることはありませんし、参拝に来させていただいたことすら認識していただけません。
「鳥居之祓(とりいのはらえ)」という祝詞があることをご存知でしょうか。
鳥居の前で一礼をして、奏上する祝詞です。
参拝が終わって境内を出るときも、本殿に向き直ってこの鳥居之祓を奏上します。
この鳥居之祓をしっかりと奏上いただければ、神様は「礼を尽くす者が来たり」と、こちらの存在を認識していただけるはずです。
非常に短い祝詞ですので、是非覚えてみてください。自信がない場合は、メモをして読み上げるか、このページをスマホで開いて読んでくださっても構いません。
鳥居之祓には、もう一つ種類があり、こちらは鳥居の外より本殿にお祀りされた神様に礼拝するための祝詞となります。
社地が広大であったり、山懐にある神社を麓から拝むような場合は、こちらの祝詞を鳥居の前で奏上して下さい。
月参りや、日頃の神社参拝のご参考のためにお読みいただく方がほとんどだと思いますので、大抵は短い方の鳥居之祓を奏上いただくことになります。
もしご都合があって、境外から参拝しなければならない時などは鳥居之祓・二を奏上ください。
筆者コラムより抜粋。鳥居之祓の詳細は以下のコラムをご参照下さい。
参道を歩く
参道は、神様の前に立つためのプロローグです。
心穏やかに、そして恭しく、ご神前に近づくという以外に、これといった決まりはありません。
今や一部の神職の方の間でも、正中は神様の通り道であるので、参道の真ん中は歩かずに左側を通行するようにとの話が通説になっているようです。
しかし、正中を神様がお通りになられることは決してありません。
正中をお通りになられるのは天皇の使いである勅使や宮司といった神職の方々です。
本当に神様がお通りになるのであれば、そこは人が通れないような配慮が構造上なされるはずです。
例えば天皇や、その使いである勅使が通る門や橋などは、通常は一般の人は通行できないように締め切られているのが普通です(厳島神社の反橋(勅使橋)や、宇佐神宮の南中楼門(勅使門)など)。
神社では「通ってはならない場所」「立ち入ってはならない場所」は、禁足地として通行が禁止されているものですし、「触れてはならないもの」は柵を設けて触れられないように対処がなされています(時にその禁を破って、立ち入ったり、触れたりされる方もいらっしゃいます。ご注意を!)。
神々が住まう場所を禁足地として定め、人の立ち入りを断固として禁じているケースは多いものです。
宇佐神宮の奥宮である大許山の大元神社、奈良の大神神社、鞍馬山の魔王殿などは、拝殿の奥には人は決して立ち入ることは出来ません。
神様が通行される正中に、人が通行できないような配慮のもと柵などが設けられていないのは、神様の通り道ではないからです。
神様が本殿から移動するのは、重要な神事のみであり、人が担ぐ神輿などに鎮座される場合です。
神様は降臨(上下移動)するものであり、ある場所からある場所へ水平移動はされないのです(ただし神使や眷属は、正中に限らず縦横無尽に移動します)。
「正中は神様の通り道説」というのは、主祭神である神様が、祭り事以外で神社を離れることがあるということが前提となっている、この荒唐無稽さに気づく必要があります。
神様は、神社に「鎮座(鎮まっている)している」のであり、移動することはありません。
ですから、参拝時に正中を一般の方が歩かれても、全く問題はありません。
神職の方が正中(この場合の「正中」とは、参道ではなく、あくまでも御社殿の中の「正中」を指す)で守らなければならない作法を「進左退右、起右座左(しんさたいう、きゆうざさ)」といいます。
正中では「進むときは左足から、退くときは右足から。立ち上がるときは右足から、座るときは左足から」が基本中の基本です。
正中以外では「進下退上、起下座上(しんげたいじょう、きげざじょう)」が基本となります。
ご神前に近い方を「上位」、遠い方を「下位」とします。
例えば、正中の右側に立っているとすると、ご神前に近い方の足は左側、遠い方の足は右側となりますので、進むときは下位の足、つまり右足からとなり、退くときは上位の足である左足からとなります。
これと同じで立ち上がるときは下位の足である右側、座るときは上位の足の左足からとなります。
ご神前の左側に立てば、これが逆となります。複雑な作法のように見受けられますが、基本的な姿勢は、常に神様に遠くから距離をとって恭しく、尊崇の念を持って近づくということに尽きます。
正中を参拝者が歩いても全く問題はありませんが、この正中以外での作法である「進下退上、起下座上」を意識して、拝殿へ進むことを心がけてみましょう。
参拝者は神職ではありませんので、左右の足の運びまで気を使う必要はありません。
さて、神社の社殿と参道の配置を注意深く観察してみると、元々参道は「進下退上、起下座上」に則って通されていることに気付きます。
ご神前から伸びる正中線と、一の鳥居(神社の入り口)から伸びる正中線は、微妙にずれているのが一般的なのです。
上の画像は京都の山國神社ですが、明確なかたちで本殿の正中線と、参道の正中線がずれています。
右側には手水舎がありますので、この配置の場合は右側を歩けば正中を横切らずして、最も遠い距離を取って、ご祭神が祀られている本殿へ近付けるのです。
伊勢神宮の外宮は左側通行。内宮は右側通行ですが、これも手水舎のある側を歩くことで正中を横切らない配慮がなされています。
ここまで誰の目にも明らかなかたちでなくとも、そもそも参道の正中は神座の真正面に向き合うようにはなっておらず、微妙にずらされているのです。拝殿が正面に位置していても、本殿が参道の正中からずれて配置されています。
ですから万が一、正中を歩くことがあっても、ご本殿に祀られている神様の真正面となることはありません。
「正中は神様の通り道」という説は、十数年前のスピリチュアル・ブームの中で突然発生したものです(あるスピリチュアリストの発言による)。気にされずに、好きなところをお通りになられて構いません。
「進下退上、起下座上」を意識する余裕があれば、参拝する神社の手水舎のある側を歩けば、正中を横切ることはありませんので、神様の失礼になることはありません。
もし、正中を横切る必要がある場合は、必ず一揖(軽い会釈)をしましょう。
また、参道を歩くときに「三種太祓(みくさのおおはらひ)」の一部である「天津祓(あまつはらひ)」を唱えると、より清浄な状態で神様の御前に立つことができます。
参道を歩く間、繰り返し唱えます。
この天津祓は、「遠つ御祖の神、笑み給え」という意味をもつ言霊であり、古くは占いに用いられていたといわれます。
天とつながり、全ての罪穢れを祓う最上の唱え言です。
開運効果の高い詞ですので、日常でも是非唱えてみましょう。
筆者コラムより抜粋。天津祓についての詳細は以下のコラムをご参照下さい。
手水舎で手と口を清める
古来から人は神仏と向き合うときに、自身が世俗で負った穢れを祓い、清浄になるべきであると考えました。
つまり「禊(みそぎ)」と呼ばれる行為です。
この禊をかつては各神社の側にあった清らかな川や湧水などで行なっていましたが、近代になって水場を取り巻く事情も変化してきた為、神社の境内に手水舎という形で禊の出来る場所が確保されるに至ったわけです。
伊勢神宮では現在も五十鈴川御手洗場で身(手と口)を清める風習が残っています。手水舎も別途設けられています。
「禊」には「斎戒潔斎戒(さいかいけっさい)」という身なり、食、住まいに至るまでを徹底して清める作法がありますが、現在の手水舎で行う禊はこれを簡略化したものとなっています。
以下、手水の作法です。
この所作を流れる様な動作で行います。
手水舎での作法
1:まず手水舎を前にして「一揖」を行い、右手で柄杓を持ち、たっぷりと水を汲んで左手を清めます。
2:次に、柄杓を左手に持ち替えて、右手を清めます。
3:再度、柄杓を右手に持ち替えて、左手をお椀状にして、そこに水を注ぎます。
4:その水を口に含んで、口をすすぎます。
5:お椀状にした左手をもう一度清めます。
6:その後、残った水で柄杓を洗い清めるために、柄杓を垂直に立てて残った水を流します。
水は最初に柄杓ですくった一杯のみを用います。
手水舎にて、手と口を清める際、「略拝詞」を唱えて頂くと、より清浄な状態で神様の御前に立つことが出来ます。
筆者コラムより抜粋。略拝詞については以下のコラムをご参照下さい。
お賽銭
皆さんは寺社に参拝した時に、お賽銭をいくらお納めになるでしょうか。
「ご縁があるように」という思いを込めてお賽銭箱に「五円玉」を入れるという方は多いでしょう。また、「二重のご縁がありますように」との願いを込めて「二十五円」を入れる方もいらっしゃいます。
お賽銭は「白いお金」、つまり50円や100円や500円玉を入れるべきで、10円玉は入れてはいけないと仰られる方もいらっしゃいますし、硬貨の枚数にもこだわりや、こうでなければならないという決めごとを推奨していらっしゃる方もおられます。
しかし、お賽銭には何の決めごともありません。
お賽銭とは志(こころざし)であり、神様へのお願い料、依頼料ではありません。
ご自身が日頃、人並みにでも屋根のある家で雨露を凌いで暮らし、食事にありつける生活を送ることができていることに感謝の気持ちを示すため捧げるお金です。
神様は人々の気持ちを感じたいのであり、金額や硬貨の色にこだわるといったことはありません。
多種多様な「お賽銭の決めごと」は全て人間側の勝手な価値観に過ぎないことに気付かなければなりません。ご自分の懐具合に無理のない範囲でお賽銭の額は決めて良いのです。
そもそも、お賽銭箱が神社に置かれるようになったのは1540年の鶴岡八幡宮が最初といわれており、お伊勢参りなどの社寺への参詣が庶民に広がり、貨幣経済が浸透して来たことによって、神社にお金を納めるという風習が根付くことになりました。
それまでは山の幸、海の幸をお供えしたり、お米を白い紙で包んだ「おひねり」をお供えしていました。
これは祈願という意味合いで供物をお供えするのではなく、無事に作物を収穫することができて、民衆がその年も生計を維持出来ることへの「感謝」の思いを表しているのです。
「お賽銭」の「賽」は「神恩に報いる」という意味があります。
また神事や神饌として神前に撒く米を「散米」といいますが、この「散米」に由来して「賽銭」は「散銭」と書くこともあります。
こうしたことからも、「お賽銭」は感謝の気持ちを神様に伝えるためのものであることが分かります。
ですから、「お賽銭」はあくまでも参拝する方の志であり、自分の出来る範囲の金額、負担にならない額をご自分で決めれば良いのです。
「10円」でも「100円」でも「1万円」でも自由なのです。
ただし、感謝を伝えるためのお金ですから、決して賽銭箱に投げ入れないで下さい。
神社で多く見受けられるのは、賽銭箱に投げ捨てるようにお金を放る行為です。人に感謝の気持ちを込めて何かを手渡す時に投げて渡すでしょうか。
人に対する時の礼儀と、神様(神社)に対する礼儀とは変わりありません。
初詣には例年多くの参拝客が訪れ大変混雑しており、賽銭箱の側まで近づくことさえできずに遠くから投げ入れざるを得ない状態ですね。
そのような場合は仕方がありません。
心の中で「お賽銭を投げる」無礼を詫びた上で、投げ入れましょう。
また、混み合っている場合は無理をして投げ入れる必要もありません。後日、混雑していない時に改めて参拝に訪れて、その時にお賽銭をお納めすれば良いでしょう。
お賽銭を投げ入れる無礼を避けるためにも、コロナ禍での分散参拝には一定の意味があったといえるでしょう。
お賽銭を投げ入れるときの、小銭の音は邪気払いの意味合いがあるのだから投げても良いのだ、更にはより大きな音がした方が良いのだと言われる方もいらっしゃいますが、そうした「祓い」の意味合いは、お賽銭ではなく前述した「鈴」が担っています。
「神恩に報いる」、神に感謝の意を伝えるための「お賽銭」は、賽銭箱に静かに入れたいものです。
柏手
神社でオーバーアクションで礼をしたり、大きな音で柏手を打つ行為を「恥ずかしい」と思われる方は意外と多いようです。
なるべく目立たないように、静かに、そして小さな所作でサッと終わらせようとする方が多いように見受けられます。
しかし、それでは神様に「本日、私○○がここに参拝に参りました」という事実も、尊崇の念も伝わりません。
神社で美しい所作で、拝礼や、柏手を打っている方を見ますと、皆さん身なりが良かったり、背筋が伸びてパワーが漲っているのがよく分かります。
正しい所作で神様に対する人というのは、他者にも同じように接し、何事にも真摯な態度で臨み、また自発的な行動が出来る人でもあります。
それだからこそ、社会で成功したり、自分に自信が持てるのです。
その結果として身なりの良さや、漲るパワーに繋がっているのです。
拝殿で「二礼二拍手一礼」(神社によって拍手の回数が異なる場合がある)をしますが、多く見受けるのが拍手の音がほとんど鳴っていないケースです。
「恥ずかしいから」敢えて音を立てないという方もおられるでしょうし、「別に音を立てる必要はない」と思っておられる方もいらっしゃるでしょう。大きな音で柏手を打ちたいのに、音があまり出ない方もいらっしゃると思います。
音が出ないのは、力が弱いからではありません。右手と左手を綺麗に左右対称に重ねて打っているからです。右手と左手を少しずらして打つだけで、かなり締まった大きな音が出ます。
その手のずらし方にも作法、方法があります。
左右対称に重ねた両手の、右手側を手前に第一関節分ほど引きます。
更に手前に引いた右手の掌を、中心から弧を描くようにやや上側にずらして柏手を打つと大きな音が出ます。
自室や旅先のホテル、旅館の部屋で不穏な気配や雰囲気を感じたりしたときは、この方法で柏手を打ってみましょう。音が空間に吸い込まれる感じがして、あまり音が出ないはずです。
逆に音がよく響く場所は、清浄な空間だといえます。あまり音が響かない部屋は、その部屋の中央と四隅で柏手を力強く打つと簡易的な浄化となります。
部屋を清浄な空間に変えたいときなどは、是非試してみてください。
柏手のパンッという音がした瞬間にその音霊とともに光が部屋中に拡散するイメージを持つことが大切です。
柏手を打ち終わったあと、そのまま腕を下ろさず、ずらし、引いた手を元に戻すようにしましょう。
さて、柏手を打つ時に何故、右手を引くのでしょうか。
左は「火足(ひたり)」「陽(ひ)」「霊(ヒ)」であり、右は「水極(みぎ)」「陰(つき)」「身(ミ)」という意味があるそうです。
つまり「左」は「神様」を表し、「右」は「人」を表しています。また「左」は「陽」で、「右」は「陰」ということもいえるでしょう。
*仏教では反対に左手は「迷いの世界=人」を、右手は「悟りの世界=仏様」を表します。神道では「左」を、仏教では「右」を重要視します。神社では境内の移動、接末社への参拝は左周り(反時計回り)で参拝します。
両手を合わせる行為は「陰陽」の結合を意味し、右手を手前に引く行為は、「陽」に対して「陰」が、「神」に対して「人」が一歩下がるということを意味します。
右手を引いた状態で打つ柏手は、天地開闢(てんちかいびゃく)の音霊となり、神様と繋がることが出来るのです。つまり神様のいらっしゃる家の玄関をノックするのと同じです。
ノックの音が小さければ、自分が訪れていることを神様にお知らせすることは出来ませんし、礼(拝)を軽んじれば礼儀を欠くことになります。
このように所作には全て意味があります。
オーバーアクションだと恥ずかしがらずに、美しい所作を意識して、礼の1つ、柏手の1つに気持ちを込めて頂けたらと思います。
鈴を鳴らす
拝殿の賽銭箱の上には通常、鈴があります。
二礼二拍手一礼の前に鈴を鳴らすわけですが、これは神様に自分が来たことを知らせるためのものではありません。
この鈴は、巫女舞のときに巫女が手に持って鳴らしている「神楽鈴」が原型となっています。
この鈴の音によって魔を祓っていたのです。
ですから、この賽銭箱の上の鈴を鳴らすのは「お祓い」と同様の意味があるということになります。
現在の私達が行なう参拝方法は自由参拝(略式参拝)といい、明治以降に簡略化されたものです。
通常、昇殿参拝(正式参拝)で行なわれるお祓いを、簡略化した自由参拝でも自ら行なえるようにという配慮のもと、鈴が設置されるようになりました。
こうしたこともあり、鈴が設置してある神社では、力強く鈴を鳴らす方が良いということになります(鈴のない神社もあります)。
京都の八坂神社をはじめ、新型コロナウイルス感染対策として、お賽銭を入れると自動的に鈴の音がスピーカーから流れるという仕組みを採用している神社もあるようです。
*感染症対策により、各寺社では鈴緒(すずのお)が撤去されている場合があります。各寺社の定めたルールや状況に応じて参拝ください。
参拝
参拝は通常「二礼ニ拍手一礼」ですが、畏れ多くも神様に願意を聞き届けていただくためには、「一揖二礼ニ拍手一礼一揖」を行います。
一揖とは小揖を指し、低頭する角度は15度です。これよりも深い45度の角度で低頭する深揖、90度の角度で低頭する一拝でも構いません。
一揖の際の手の位置ですが、指先が太腿の上部につくようにします。
一礼(拝)の際は、指先を太腿の上を滑らせるように移動させ、膝を覆うところまで持っていきます。もし、腰などに持病があって体が曲がらないという場合は、可能なところまで曲げてください。
指先が、太腿の裏についている方が多いので、参拝の際は指先の位置も意識します。
参拝の順序
※初詣で拝殿が混雑している場合は、適宜以下の作法を省略します。①、③、⑥、⑧、⑨は省略して頂いて構わない項目となります。より丁寧に神様にご挨拶したいと思われるときは、混雑していないタイミングで改めて参拝に行かれるか、初詣当日の混雑している行列から離れて、本殿の脇などで、この作法に則って参拝を行われても結構です。
まず正中(拝殿中央)を避けて、左右のどちらかに寄ります。
① 一揖(より丁寧な二拝を行う方法もあります)して、一歩神前へ進みます。
② 二礼ニ拍手
拍手は胸や顔の前ではなく、前に突き出すように行います。両手を合わせた状態から、右手を第一関節分引き、さらに右手をやや上方にずらして手を打ち鳴らします。より、大きな音が鳴るように意識します。
二拍手目を打ったあと、そのまま合掌の状態を維持します。この時も重ねた手は胸や顔の前ではなく、前に突き出します。ただし、指先はやや上を向くように注意します。
*寺院の参拝は、両手を胸(みぞおち)の前に置きます。
拍手は、両手を肩幅ほどに開いた上で打ち鳴らします。
③「神社名」「神名」を申し上げて、神様に呼びかけを行います。
例)「◯◯◯神社 ◯◯◯尊 の大前に」
自分の「住所」「名前」をお伝えするという解説もありますが、神様にはそのような世俗の情報は必要ありません。
④ 参拝させていただいた感謝を述べます。
例)「本日は、参拝させていただき誠にありがとうございます」
⑤願いごとをお伝えします。
その願いごとに関し、自分がこれまでどのような努力をしてきたのかなどもお伝えします。願いが叶ったあとの自分の目標や行動についてもお伝えすればより最善です。
例)「◯◯という病気(怪我)が治りますように。治りましたら、より仕事を頑張って家族を幸せにします」
例)「仕事運が向上しますように。仕事が好調になりましたら、社会や地域の人々に還元したいです」
⑥ 祝詞を奏上します。
以下のいずれかの祝詞を奏上します。既にご存知の祝詞があれば、そちらでも構いません。
【祓詞(はらえことば)】
掛けまくも畏き伊邪那岐大神
(かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ)
筑紫の日向の小戸の阿波岐原に
(つくしのひむかのおどのあはぎはらに)
禊祓へ給ひし時に成りませる祓戸大神等
(みそぎはらへたまひしときになりませるはらへどのおおかみたち)
諸諸の禍事罪穢有らむをば 祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞食せと恐み恐みも白す
(もろもろのまがごとつみけがれあらむをば はらへたまひきよめたまひまをすことを きこしめせとかしこみかしこみまをす)
【天津祝詞 / 禊祓詞】
高天原に神留り坐ます
(たかまのはらにかむづまります)
神漏岐神漏美之命以ちて
(かむろぎかむろみのみこともちて)
皇御祖神伊邪那岐之命
(すめみおやかむいざなぎのみこと)
筑紫日向の橘の小門之阿波岐原に
(つくしひむかのたちばなのおどのあわぎはらに)
禊祓ひ給ふ 時に生坐る祓戸之大神等
(みそぎはらひたまふときにあれませるはらえどのおおかみたち)
諸々禍事罪穢を祓へ 給ひ清め給へと
(もろもろまがことつみけがれをはらへたまひきよめたまへと)
申す事の由を天津神地津神
(まをすことのよしをあまつかみくにつかみ)
八百万之神等共に(やおよろずのかみたちともに)
天の斑駒の耳振立て所聞食と畏み畏みも白す
(あめのふちこまのみみふりたててきこしめせとかしこみかしこみもまをす)
【略拝詞】
祓え給い、清め給え、神(かむ)ながら守り給い、幸(さきわ)え給え
⑦一礼します。
⑧一歩下がって、一揖します。
⑨賽銭箱の左側に立っている場合は時計周りに、右側に立っている場合は反時計周りに向きを直して、拝殿を後にします。
筆者コラムより抜粋。各祝詞についての詳細は以下のコラムをご参照下さい。